2011年2月20日日曜日

「種を蒔く人」のたとえ

最近のわたくし,シロイヌナズナの変異体スクリーニングを鋭意進行中です.
春休みを利用して来て下さっているアルバイトの学生さんたちに,感謝感謝の日々です.
また,サポートしていただいた研究所の男女共同参画委員会にも感謝の意を表します.

さてさてどんな日々を過ごしているかと言いますと.
アルバイトの方々の若い方々と一緒に,連日連日,種蒔きと顕微鏡観察です.
ところが種子によっては,発芽率が非常に悪いものもあり,困っていました.
春化処理(低温,暗所で数日おくこと)を長くしたり,ジベレリン(植物ホルモンの一種で発芽を促進するもの)入りのプレートを試してみたり,赤色光を照射したり(赤色光の照射で内生のジベレリン量が多くなると期待されます)...

顕微鏡観察のあと,有望そうなものを土に植え替えます.その後も大事に大事に飼わないと,途中で枯死してしまいます.
種をとるところまで行ければ,こちらとしては一安心なのですが.

そんな日々を過ごしていたところ.

今日の主日礼拝の聖書の箇所は,ルカによる福音書 8.4-18でした.
有名な「種を蒔く人」のたとえです.

ちょっと長くなりますが,引用します.

大勢の群衆が集まり,方々の町から人々がそばに来たので,イエスはたとえを用いてお話になった.「種を蒔く人が種蒔きに出て行った.蒔いている間に,ある種は道ばたに落ち,人に踏みつけられ,空の鳥が食べてしまった.ほかの種は石地に落ち,目は出たが,水気がないので枯れてしまった.ほかの種は茨の中に落ち,茨も一緒に伸びて,押しかぶさってしまった.また
ほかの種は良い土地に落ち,生え出て,100倍の実を結んだ.」

(中略)

「このたとえの意味はこうである.種は神の言葉である.道端のものとは,御言葉を聞くが信じて救われることのないように,後から悪魔が来て,その心から御言葉を奪い去る人たちである.石地のものとは,御言葉を聞くと喜んで受け入れるが,根がないので,しばらくは信じても,試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである.そして,茨の中に落ちたのは,御言葉を聞くが,途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて,実が熟するまでに至らない人たちである.良い土地に落ちたのは,立派な善い心で御言葉を聞き,よく守り,忍耐して実を結ぶ人たちである.」

実を結ぶに至るには,いろいろなハードルがありますね...
これまでを振り返ると,私は前半の3つ,どれにも当てはまるような気がしてしまいます...

人生でも実験でも,発芽させ,成長させ,実を結ばせることの難しさを思い知る今日この頃といったところでしょうか.(笑)
でも,大事なことは希望を失わないこと.
今日よりも明日,明日よりも明後日と,将来に光を見いだしながら進み続けること.

いつかは実を結ぶことができるように,歩んで行きたいものです.

0 件のコメント: