2008年8月23日土曜日

就職までの道のり2

前のエントリの続きです。

【植物学教室に進学】

3年になり、植物学教室というところに進学しました。
2年までパーチクリンに過ごしていた私、

「あ、ここで油断したらちゃんと卒業できないかも」

と思いました。
なぜなら。みんな私よりまじめそう。優秀そう。

ちなみに、うちの学年は、8人定員のところ、16人進学しました。当時は、学生の数が多かったので、定員の倍近い人数を取るということが数年続いていました。で、うちの学年の最大の特徴は、

女子のほうが男子より多い!

大学全体でみても、女子は全体の2割くらい。
こんな状況は教室でも「空前絶後」なのではないか、と言われました。
たぶんその後今までおよそ15年くらい、再び起こることはなかったのでは。

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【3年の頃】

3年は、まだバスケサークルで現役だったので、講義と実験とバスケの両立で、なかなかハードな日々でした。
加えて、当時22歳だった私、大変母親のことを意識しました。

「母は私の年には既に仕事をはじめて7年、結婚したころなんだなぁ」
「来年には兄が産まれていたのか」

私にはそんなことはできないなぁと思いつつ、パーチクリンな生活を何とかしなくては、と日々過ごしていました。お弁当作ったりしてましたね。3年の後期は実験の忙しさと突然のまじめな生活とバスケで痩せました。今より何キロ痩せてたんだろう。ああ懐かしい。
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【3年春休み】
当時(今もかな)、「大学3年の春休みは、最後の長い休みだからみんな遊んでおけ~!」という雰囲気が理系文系問わずありました。

でも、

「このまま遊んでいたらまたパーチクリンになるかも。」
「大学院の入試には落ちたくないし、ただし自分でガシガシ勉強するとしてもどんな勉強していいかわからない。」
「研究室の雰囲気というものがどんなものなのか知りたい」
等々のことを思っていました。

たまたま何かの拍子に、ひとつ上の先輩が、3年の春休みに、ある研究室でシークエンスのバイトをした、という話を聞きました。おお、それはいい機会かもしれない。

今年もそのバイトはないか?
他の研究室でもそういうバイトがあったりしないか?

というわけで、当時学生係だった助教授の先生のところに相談に行きました。

結局、この年は同様のバイトはどこの研究室にもなく、お金はいらないので実験をさせてほしい、とお願いした研究室にも断られ、あれれどうしよう。。。と思っていたところ、

「うちで実験しますか?お金は払えないけども」
当初相談に乗ってもらうだけのつもりだった学生係の先生がおっしゃってくれました。

ただ最も厳しい研究室、という評判だったので、おそるおそる、というかんじでした。
これより前は、この研究室に進学するという選択肢は皆無、だったのですが、のちに大変悩むことになります。

この学生係の先生がなんと、今のボス!だったりします。
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【4年時代】

春休みは1ヶ月ちょい研究室に出入りさせてもらいました。

ある酵母の遺伝子のホモログをヒトかマウスから取ってこよう,という計画でしたが,
結局,シークエンスをしてみたらもともとの酵母の遺伝子ばかりでした。orz
コンタミの恐ろしさを痛感しましたよ。モレキュラーワークへの苦手意識のルーツかも。(笑)

がっくりしている間もなく,4年の実習がはじまりました。

A研で,実際に電子顕微鏡のサンプルを作るのを見学させてもらったり,蛍光顕微鏡を一回分解して組み立てたり,ということをしました。その顕微鏡の世界は,これまで私が知っていたものより数倍美しく魅力的でした。

「あっ,これだこれ,私がやりたいこと!」と思いました。

前期の実習が終わる頃,大学院への進学先はどこにするか,ぼちぼち皆意思が固まって来ます。
そんな中私は慌ただしく郷里に戻り,母校で教育実習をしました。

私はもちろん前述の,顕微鏡の研究室,A研を希望していました。
一方このとき春休みに実験をさせてもらった大変厳しい研究室,B研の学生係の先生が,
「今度からいよいよ植物をテーマに仕事を始めようと思うので,来ないか」
という誘いを受けました。春休み実験のやる気を買ってくれたのだと思います。

これには大変迷いました。

そして,クラスメートの進学希望を聞いたところ,さらに混迷を深めました。

なぜなら,A研とB研に希望が集中していたから。
確か内部だけで,A研4人,B研6人。

ここで,「人数多すぎるから別のところにする」という判断をする学生がちらほら出る,あるいは受け入れ先の研究室から「人数が多すぎると面倒を見るのも大変になるから,もう少しばらけた方がいいんじゃないか」という上からの助言がある場合もあると思いますが。

誰もそういうことを言わない。
成績から言ってもあまり自信のない私は,A研の教授のところに相談に行きました。
教授は,
「人数が多いからってねー,関係ないよ,自分が好きなことをやるのが一番でしょ?」
「あと成績もね。研究者になるということと,学校時代の成績は違うからね」
というようなことをおっしゃいました。

おお。静かに感動しました。

ただ,B研からも声をかけてもらっている,というのは大変心にひっかかりました。
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夏になりました。屋久島の野外実習で,山道を息を切らしながら歩いているときも,
(締め切りが迫っていたので,この実習が終わって東京に帰ったら即,大学院入試の願書を出さなくてはならない)
最後の最後まで考えました。
都会の喧噪から離れ,屋久島の大自然の中で,直感で決断しました。

A研に行こう。

登山口のところの小さな川が,台風通過の影響で濁流になっていました。
石がごろごろ転がりながら流されている川を見て私が思ったこと。

「あ,今日中に東京帰れない。ってことは大学院の書類もダメかも。」

引率の助教授,助手の先生が,突然ものすごい頼もしさを発揮し,我々を向こう岸まで到達させてくれました。浅いポイントを棒でつつきながら探し,浅いポイントを結ぶルートを作って向こう岸までロープを張り,どうしても越えなくてはならない深いポイントは,自分がその近くに立って一人一人を支えてくれました。このとき何か事故でもあったら,私は大学院にも進学できなかったかもしれないのです。。。この二人の先生に感謝です。

この濁流は,大学院以降の生活を象徴しているように思えます。
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夏休み中は大学の4年の居室に通って勉強しました。クーラーなし,扇風機のみで真夏の都心で勉強,って,今想像するだけでくらくらしますが,その年は運良く冷夏ぎみで助かりました。講義のノート,「細胞の分子生物学」の3版と,「遺伝子の分子生物学」を主にやりました。

なんとか大学院試験には受かったようで,ほっとしました。
でも,自分ではあれだけガシガシやったつもりでも,たいした成績ではなかったようです。
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当時は4年の後期の半年だけが卒業研究,とされていました。
また当時は,卒業研究と大学院の進学先は別にするべし,というルールがありました。
というわけで私は,進学先として迷っていたB研で卒業研究をさせてもらうことにしました。

半年はあっと言う間に過ぎ,卒業しました。
厳しい研究室で朝から夜中までよくやりました。
でも,要領が良くないというか,言われたことをただこなしているだけで(しかも特段の工夫もなくただ時間だけを費やしていました,先輩や指導教官の言うことの方が絶対正しいに決まっている,その助言に従って淡々と作業をこなせればいのだ,とすら思っていたのかもしれません。),大きな発展につながるような成果は出ませんでした。私と一緒に卒研をやっていた同級生は,卒研当時に見つけたことがきっかけでその後first authorの論文を書いていました。
一方私は,確認作業のような実験で,少しアタリっぽいデータが出て,それから数年後「B研で植物をはじめる最初の学生」となった同級生(そう,私は断ってしまったのですが,男子の同級生がそこに行くことになりました)の論文に名前を入れてもらえた,という程度。

彼女と私の違いは何か。彼女は自分なりの工夫をし,指導教官や先輩の助言だけに頼らず頭をフル回転させ,次々に実験を計画し実行していました。それが私との大きな違い。
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B研での卒業研究はハードでしたが,多くのことを学びました。先輩たちの熱心な仕事ぶり,セミナーでの緊張感,白熱した議論。正直,この研究室を希望しなかったことを少し後悔しました。

ということもあり,念願だったA研への進学だったはずが,ちょっと出ばなをくじかれた格好になりました。B研への未練が出て来ました。ああ,今思うと,当時は私も乙女であったのですわ。うじうじ悩み未練たらたら。あきらめてしまったものがやたらと魅力的に見えてくると,今度はそちらがやたらと惜しくなる。

A研は,大変自由な研究室でした。信じられないくらい自由。
本人が,これをやりたい,と言えば,やらせてくれました。
扱う生物材料も,そのテーマに最も適したものを選ぶべき,というモットーのもと,それぞればらばらでした。ただし,アプローチは顕微鏡から入る,ということでした。まずは何か興味深い生物現象を見つける。それを研究するのに(最も)適した材料を選ぶ。その後は様々な顕微鏡の手法を用いて攻めて行く,という感じです。
先生がその頃本腰を入れ始めたシゾンの分子生物学,自分でやりたいことがなければそれでもいいよ,ということでした。私は当時被子植物の花粉に興味を持っており,なんとなくそれをやりたい,と言いましたら,「ああ,花粉ね,いいよいいよ」とあっさり教授はおっしゃられました。

研究における自由,というのは実に恵まれていて,なおかつ大変シビアです。

例えて言うなら,屋久島の濁流を,「道具はある,助言もするから,これを渡ってみよう,でも自己責任でね。Are you ready?」「Yeah!」みたいな感じです。

修士2年はまさに濁流に飲まれっぱなしでした。溺れてました。(笑)

(つづく)

4 件のコメント:

ママ研究者 さんのコメント...

小説になりそうな内容ですね!
屋久島の大自然・・・いいですねー。

続きを楽しみにしてます♪

ちえこまま さんのコメント...

ママ研究者さん,コメント有り難うございました!

> 小説になりそうな内容ですね!

わっ,想定外のおほめの言葉。ありがとうございます。

> 屋久島の大自然・・・いいですねー。

この屋久島実習にはまだまだいろいろと思い出話があります。結局縄文杉を見れなかったので,いつかまた行きたいです。

匿名 さんのコメント...

コメントが遅くなりました^^;

いろんな出会いがあったのですねー。
それに、ちえこままさんの当時の色々な想いが聴けて、ちょっと感動です。

そういえば私は春休みに1か月、顕微鏡を覗かせて頂きました。今とは違うことができたのも良い経験でした。

ちえこまま さんのコメント...

suikyoさん、コメントありがとうございました!
長期化しそうです。^^;;;
気長に見守ってください。