2009年2月8日日曜日

出産への道のり1

2004年6月、留学のため渡米して6か月目でした。
所属していたのはMichigan State University, Department of Biochemistry and Molecular Biology。
長い冬が終わり、やっとなんとか英語での生活に慣れてきたかなぁ、と思っていた矢先、妊娠が発覚しました。
巨大スーパーで妊娠検査薬をやっとの思いで探し出して買って帰り、意を決して検査してみたところ、ばっちり陽性反応が。
夫は「わー!」と言ったきり口あんぐり、な状態でした。
検査薬が2本セットだったのですが、もう一本はどう処理しよう、と思っていたところ、
夫、「ボクも検査しちゃおうかな」
(多分、ネガティブコントロールが欲しかったのでしょう。)

私たちはVisiting Scholar という扱いだったので、学生用の保険になぜか加入できることになっていました。ちょっと調べてみたら、アメリカで無保険で産むと、普通分娩でも100万円、帝王切開だと300万円!私たちが加入している保険で一応どちらもカバーしてくれそう、ということで胸をなでおろしました。

ちょうど今勤めている研究所で公募が出ていて、応募するかどうか迷っているところでした。
アメリカでの生活にも慣れてきて、それなりに楽しんでいました。このままずっと海外にいてもなんとかなりそうだなぁ、と呑気に思っていました。
そんな矢先に妊娠が発覚し、日本でのポストの話がほぼ同時にあったので、正直かなり動揺し迷いました。
結局、夫と複数の上司からの強い勧めに後押しされて、応募することにしました。
つわりでおえおえしながら公募の書類を揃えました。
でも、夫の帰国のめどは全く立っておらず、産後日本に一人で0歳児を連れて帰国しなくてはなりません。どうするつもりだ私、とつっこみを入れたくなります。私の両親は年も年ですし手伝ってもらうことは難しいことがわかっていました。研究所に最近できたという託児所だけが頼りでした。
不安は確かにありましたが、とにかくやってみよう、という気持ちでした。

つわりは、吐き気はそれほど強くなく、何か食べていればおさまる、という程度でした。
おえおえ、とはしましたが、本当に吐いたことは一度もなかった。
それよりもつらかったのが猛烈な眠気。
本当に、寝ても寝ても寝ても寝ても眠い。
日がな1日寝ていても、夜もしっかり眠れます。

強い吐き気がおさまる頃には、食べ物の嗜好に変化が現れました。
日本のコンビニで買えるようなものが無性に食べたくなりました。
ところがミシガンでは入手できないものが多く、
肉まん、プリン、卵サンド、ゼリーなど、いろいろなものを自分で作りました。
で、一人でものすごい量をもりもり食べていました。
(食べたくなるものは夫が興味を示さないものばかり)

8月くらいのことだったと思います。妊娠4か月目かな。
検診で、初めて内診を受けた私は具合が悪くなり、家で休んでいました。
そしたら、がちゃがちゃがちゃ、とドアが開き、カーペットを持ったおじさんが。
えええ。
「あれ、おまえたちってここ引っ越す予定なんじゃないの?来週火曜から別の人が入るからってんで、カーペット替えに来たんだ」
はあああああー!?
その日は金曜日。
夫に急いで電話。
夫も、はあああああー!?

これはあとで判明するのですが、夫がイギリス出張中で留守にしていた時に届いていた手紙の中に、
「契約更新が近いです。#日までに連絡がない場合、契約更新しないものとみなします」
という書類がありました。それを私たちが気付かないでいた、というのも悪いんですが、消印と中の日付を照らし合わせてみると、#日までに返答するのはほとんど不可能な日程。

大急ぎでいくつかの物件に電話をかけて、
「とにかく今すぐ入れる部屋ないですか」
と探しまくりました。

で、その日のうちに次の新居を決断。
そこの管理オフィスにいた女性が
「どうしてそんなに急いでいるの?」
と聞いてきました。
事情を説明すると、
「それは違法だわ。1か月の猶予がなければいけないはずよ。そんなずさんな手続きをするなんて。でも、そんなことをする人ばかりじゃないから。大変だったでしょう、ごめんなさいね、私がかわりに謝るわ。」
このときの彼女の優しくしかも誇り高い態度を私は忘れません。

前のアパートの管理人のところに行って、涙ながらに抗議の言葉をまくしたてました。
当時はアグレッシブだったなぁ。。。英語力もあったし。
妊娠中で感情的になりやすい、というのもあったかも。

ものの数日のうちに、引っ越しを終えました。
結局前のアパートでは子供を持つには部屋数が足りない、ということで、結果的にはちょっと広い家に引っ越せて良かった、わけですが。
(子供を持つには2ベッドルーム以上の広さでないといけない、ということをまわりから聞きました。
ミシガン州だけのことか全米でそうなのかはよく知りません)

ちなみに、前のアパートには、リスが出ました。部屋の中に。
やっぱり引っ越して良かったと思います。

このころ交渉ごとについてはかなりの部分を私が担当していました。
病院に行っても、夫はついてきてはくれるものの、会話のほとんどは私。
毎回電子辞書片手にお医者さんとやりとりをしました。

「日本での仕事で面接に行かなくてはいけないんだけど大丈夫か」
「大丈夫だよ、安定期の頃だしね」

「もしその仕事が決まったら、妊娠後期に日本に行かなくてはならないんだけど大丈夫か」
「飛行機会社によっては臨月のお客さんを乗せるのを嫌がることがあるかもしれないけど、まぁ大丈夫だよ」

妊娠中期後半くらいに
「体重は大丈夫か」
「特に問題ないよ」
(9キロ増をすでにオーバーしていた気がする。日本だと臨月で9キロ増が推奨されているらしい)

ええと、そんなに何でも大丈夫でいいんですか、とこちらが聞きたくなるほど。

いろんな検査の中で一つだけひっかかったのが血糖値。
今日は血糖値を測るという日の朝食が、甘いミューズリーとフルーツジュースだったせいだと思います。
再検査になり、やたらと甘い液体を飲んで、一定時間おきに採血しました。何回も注射針を刺すのでだんだんと難易度が上がり、えええっ針を刺してからぐりぐり動かして血管探すのってアリ?ということもありました。

日本と違うところは、超音波検査を毎回しないこと。私が入っていた保険が安いものだったから、というせいかもしれませんが。妊娠期間中に2回しかカバーされず、1回余分にしたら3万円の請求書が来てビックリしました。その余分な1回分は、触診だとどうも子宮の大きさが週数にしては大きい、胎児の大きさを見て予定日が妥当か判断しよう、とのこと。どうも子宮が大きいらしい。

あと、超音波検査の前に、ぎょっとするほど大量の水を飲まされること。
モニター画面に、「ああ!赤ちゃんの姿が見える!」と大感動しながら、
「トイレに行きたい~!もう限界~!」
なわけです。

診察は、ドクターとナースプラクティショナー(ナースなんだけれども、ちょっと格上らしい)が
1月ごとに交互に診察してくれました。
ドクターのほうはとっても優しそうな男性、なのですが、ナースの方は、怖そうなおばさま。。。
この人は、母乳の講習会の講師でもあったんですが、いやぁ、強い人でした。。。
自分もマスターの学生の頃に子供を産んだそうで、赤ちゃんを連れて講義に出たそうです。
学生で子供を産む予定の人が不安をもらすと、
「私があなたのボスに電話をかけて話をしてあげるから」
と来ました。
というか、その方だけでなく大学全体で、
「ミシガン州立大学は母乳育児を応援します!」
という運動すらあって面喰いました。
私は、
「母乳が足りるかどうか不安です」
と言ったところ、
「乳がんで片方の乳房がない人が、三つ子を完全母乳で育てたことがある。大丈夫だ」
とのたまいました。

で、単純な私はすぐに影響され、ぜひぜひ母乳育児で行きたい、と思ったわけですが、その後この母乳推進派最前線の方から
「もうあきらめなさい」
と言われたわけです。その落胆と言ったらありません。

(第1回目からとりとめもなく長くなりました。つづく。)

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